大阪自然教室のホームページが4月に一新されましたました。

これまでは「みどりのしんぶん」の表紙を書いている角中君が担当していましたが、仕事が忙しく、あまり更新できませんでした。活動も会員数も停滞している大阪自然教室を立て直そうという取組の中で、ホームページは日常的な活動には参加できない東京組のリーダーが中心となって、若いリーダーたちが3ヶ月ほど議論を重ねての力作です。
この過程で、大阪自然教室の活動を簡潔に分かり易く紹介するにはという話になった時、若いリーダーたちから「ごまめ」という言葉は若いお母さんたちはわからないので、この言葉を使わなくても表現できるのではと提起されました。
「ごまめ」は大阪自然教室を語る時に私がこだわって多用してきた大阪言葉で、東京で言うところの「みそっかす」にあたり、遊びの中で大きな子たちからは一人前に扱われない小さな子たちをさします。語源的にはカタクチイワシの干し物からきており、雑魚がとでもいうことで「ごまめの歯ぎしり」という使われ方もします。
前提になるのは異年令の子どもの群れ、大きな子たちはルールもわからずちょこまか動き回る「ごまめ」を邪魔者と遊びから排除することなく、時にはそれなりの役割を与えたりしながら群れの一員と認めて遊んでいました。大阪自然教室がこだわってきたのはまさにこのような異年令の子どもの群れと、群れの中での育ちでした。実は、若いリーダーたちは私がしつこく「ごまめ」と言い続けているから知っているのであって、世間的には二、三十年前からすでに死語となっていました。
言葉は人と人が意思疎通を図るツールですから、時代とともに淘汰されていくものです。例えば「ワラをなう」という「なう」という言葉も、ワラをなうことがなくなれば当然死語となるように、基盤となる生活が変わるのに伴って、必要な言葉を転用したり造語していきます。
ですから、若いリーダーたちの指摘は一理あるのですが、でも、私は「ごまめ」にこだわり続けます。大阪自然教室は金銭的対価を支払ってもらって提供するサービスではありません。それこそ「ごまめの歯ぎしり」かもしれませんが、異年令の子どもの群れに最初は「ごまめ」として加わり、仲間にもまれながら経験を積み、成長すると今度は小さな子たちの面倒をみてきたかつての子どもたちをモデルに、現在の子どもたちに豊かな子ども時代を、という想いが大阪自然教室を続けてこれたモチベーションだったからです。
現在、子どもたちは「ごまめ」を経験することなく大人になり、今度は仕事でも一時も「ごまめ」でいることは許されず、即戦力と常に完璧を求めらます。しかし一方では、非正規雇用という使い捨てが大手を振ってまかり通る、「ごまめ」であることが一切許されない息苦しい社会が、大人になってからの閉じこもりの要因の一つだと思います。だからこそ「ごまめ」は消えてはならない言葉です。