大阪に出てきて2年になるリーダーのはるかは、もとは兵庫県の美方町という渓谷の出身であり、智頭以前のOSKの特別教室の主役といえばこの美方自然教室であった。

正月に帰郷したはるかによると、除雪されていない場所には1メートルからの積雪があったという。おれは大阪で生活する子どもが自然教室、特に泊まりのイベントに参加する中で体験する自然のうち、もっともインパクトの強いものは雪だと思う。

2008年2月の箕面例会の日のように、突発的に大雪の降る日があったとしても、それが冬の間残り続けるということは大阪ではまずないと言っていい。考えてみると大阪という町ほど気候的条件のいい所もなく、常識の範囲内で夏暑く冬寒いということ以外、水が枯れることも豪雪で交通が麻痺することもなく、台風でさえまるで嫌っているかのように警報を発するのみで眼前をすれちがっていく。

はるかの故郷である美方では、冬は雪と共にある。最近は家の造りも丈夫で、簡素になっているのかもしれないが、冬に入ると雪囲いをし、屋根に積もれば雪下ろしをする。

美方で雪下ろしをしたときのことを、書く。

高学年対象の熱田から、標高で400メートルほど下りた貫田という集落の少し奥に、元民宿であった家を借り、当時の美方での拠点にしていた。持ち主の田村すゑのさんは農機具で足に怪我をし、そのため娘(だったか息子だったか忘れたが)夫婦のいる大阪で一緒に住まれている。
高野豆腐を製造の際に出る豆腐の屑を集めた「粉豆腐」という、信州に有名な食品があるのだがこれが美方でも売られており、「大阪に来てから長い間食べていない」というすゑのさんに届けると目に涙を浮かべて喜んでいたことを思い出す。

さて、その元民宿、「すゑのさんち」である。
美方には地元の人の家と民宿を兼ねた、一見するとただの大きな家というくらいのものが多いが、すゑのさんちも昔はそういう家だったようで

六郎と共にすゑのさんちの雪下ろしに行ったのは2月のことである。除雪されている本道から、軽トラ1台がやっとの林道を登る。歩きなれた我々が20分程かけて登る林道はなかなかに急で、本道からは家の姿を見ることはできない。この時期、本道以外の道は除雪が一切されておらず、まずは目の前にそびえる雪の壁を切り崩して雪の上によじ登らなければならない。

輪かんじきという、雪道を歩く靴を装備し、一歩を踏み出す。この輪かんじきは足の接地面積を増やし、体が雪に深く埋まることを防ぐものだが、それでも体が腰まで埋まる。踏み出す。腰まで埋まる。後ろ足を引き抜き、また1歩を踏み出す。
歩くということが、ここまで苦労することだったか。新雪は特に歩きにくいため、ときに六郎と先頭を交代しながら進むのだが、歩きなれた道であるにもかかわらず家を見失う。すゑのさんち自体も雪で埋まり、目の前が2階の窓という状態だったということもあるのだが、とにかく一面が雪で真っ白に覆われて、夏の頃の道や畑など地形を読む材料が隠れてしまっている。

家に着くまでに雪の重みを満喫してしまった。雪下ろしに来た目的は果たさなければならないが、大阪で体験することのない一面の雪なのに、六郎と二人で雪合戦でもして遊ぼうという気はもはや起こらない。