竹之内の田んぼ一枚の稲刈りが終わった。
野原の休耕田に三脚を立て、借り物の竹を渡して稲干し台を作る。
お隣の区画には地元のかよこさんが、新しい畝を作り、何やら作物を植える準備をしている。
始めと終わりに紐を張って、畝が曲がらないようにしているのを見、
横着せずにこうやれば、西村氏に曲がっているいやまっすぐだもっと左だ膨らみすぎだおれを見てみろもう少し削ったほうがいいんじゃないかなどと言われることもなかろうと騒いでいると、かよこさんは「私はとうの昔にそんなこと教えてやってるのに」と呆れ顔。
地元でお世話になっている人の中で、かよこさんは常に毒舌キャラである。
1年、というサイクルでの米作り。それに付随する畑作業を通して、智頭での活動において、今年も無事収穫祭の季節を迎えた。もはや、「何年目」と数える指もあやしくなるほどに、我々の生活の中の日常として週末の智頭が大きくなっている。
農作業を中心とする活動にあたっては、地元の方の好意、協力、わかりやすい表現で言うならば「しょうがないなぁ」というお目こぼしに支えられてやってきた。
今年の米の出来は、決して良いとは言えない。
台風に備えていくつかの株をまとめて結ぶ作業がむなしい程に、そもそも稲穂が十分実らなかった。高い位置から見れば一目瞭然である。
収穫の時期は程近いに関わらず地面が見えている様を、かっすんは「たかしの頭みたい・・・」と言う。心無い一言が心的ストレスを生み、ストレスが髪の量に反映することを認識して頂きたいものである。男の魅力は髪の量じゃない。
地元の農家として、我々の作業に最も具体的なアドバイスをくれる大下さんの、今年の米と比べてみたのだが、明らかに一粒の太り具合が違う。確かに、いつもの新米よりも甘みと瑞々しさが少ないような気がする。悪い気候だとは聞いた。水の量も毎日見られるわけではない。それでも、近くの田んぼに満々と実る稲穂を見るにつけ、今年は質とも味とも、残念だという気にさせられる。
思えば、しかし、贅沢になったかもしれない。
「新米の味が悪かった」というのは、確かに贅沢だ。
それでも大阪のスーパーで買う安米とは比べ物にならない程の味である。
要するに、「新米はいつもこれくらい旨い」というという経験があり、その期待値を今回は下回った、ということであろう。実体験としての農業の感覚が、年を追うごとにひたひたと備わってきている。
思えば、今年も代掻きで失敗した。というより、代掻きの「正しい手順」と、「完成図」がまだ見えていない。できるようになった、と思えば、次の課題を与えてくれる。
お天道様次第の百姓という稼業は、なかなかに飽きのこない仕事である。