春の特別教室「ぶらり旅・周防大島編」3/29~3/31 前編はこちら

29日午前5時、日はまだ出ておらず、風が吹きすさぶ。暗い、寒い…。しかし、食事の準備や移動の行程を考慮すると他に釣りをする時間はないのだ。寒さに耐えつつ、岸壁で糸をたらす。釣れない…。ようやく日が昇ってきたあたりでタイムアップ。釣果はハゼが3匹だけだった。
朝食をとり、テントをたたみ、出発。出がけに泊清寺に立ち寄り、泊めていただいたお礼をのべる。こちらがお礼をしなければならないのに、なぜかミカンまでいたいて、重ね重ねのお礼を述べて、泊清寺を後にした。
沖家室島の岸壁沿いに歩き出す。浅瀬に50cmはあろうかというクロダイが2匹、のんびり泳いでいるのが見える。今こそ釣り糸をたれるべきなのに、我々にはその時間はない。今日は今回の旅で一番の徒歩移動日、日暮れまでに7km歩くのだ。たいした距離ではないかもしれない、現に同じ距離をGoogleで計ったら1時間ちょっとで歩けと出してきた。だが、ちょっと前まで小学生だった者が、荷物を15kg背負って行くにはけっこうな距離だ。大事をとって一日の行程にしておいた。

沖家室島と周防大島に架かる沖神室大橋をわたる。沖家室島民たっての希望でできたという橋は、一車線ながら長さが500mほどある立派な橋だ。しかも、舟が通過する海峡にあるため10階建てぐらいの高さがある。橋の頂点に立つとすばらしい展望、真下をながめるとちょっとしたスリルも味わえる。昨日はバスでとおった橋だが、こういうことをじっくり見ていけるのも徒歩ならではだ。

の瀬戸内海はヤバイ、海が青すぎる。ただの青ではない、狭い水域に浅瀬と浜が混在しているので「青」から「蒼」、そして「碧」と複雑にグラデーションがかって見える。内海なので波は優しく、ゆったりとうねるようで、白い波頭はみじんも見えない。さらに空、こいつも青い。こちらは春霞のかかった、やわらかい水色のグラデーション。青と青の上には遠くまでつらなる島々。芽吹きだした木々の生える島々は青にアクセントをつけ、海原に特有の「所在なさ」を打ち消してくれる。島と島の間にはそこかしこに舟が浮かび、思い思いの方向へと走っていく。舟はけっこうな密度で浮かんでいるのだが、ゆっくりと進むので車や飛行機と違い、あわただしい感じはまったくない。まさに「のどかさ」を描いたかのような景色。「急ぐ」ことを本能が拒否する。この風景を見ながらえんえん歩いていくのは、別の意味で苦痛だ。休憩をとろうものなら異様に時間がたってしまう。油断していると「バス一本ぐらい乗りすごしてもいいや」と思ってしまう。だが、次のバスは2時間後。日程に制限があることがうらめしくなってくるのだ。


案の定、最初の休憩で30分も使ってしまった。泊清寺でもらったミカンを食べながら、ぼんやり海をながめてしまったのだ。地図を見るとここまで歩いた距離はたったの1.5km。7kmしか歩かないとはいえ、これはやりすぎだ。
休憩を切り上げて、とにかく出発。右手にはあいも変わらずのどかな海を見ながら歩いていく。遙か彼方に見える山々は四国だ。周防大島でも東側は愛媛の文化圏に属するらしく、愛媛のFMラジオを聞いていたり、愛媛の新聞がおいてあったりする。岩国までと松山までの距離が同じなのに、岩国行きフェリーは廃止、愛媛方面はいまだに一日4本出ている。本州とは橋でわたれる距離なのに、不思議と言えば不思議だ。昔の海上生活網の名残なのだろう。そういえば祝島も対岸の大分県とつながりがあった…。などと考えていると、どんどん歩くペースが落ちていく。結局、いくらも歩かないうちに昼食の時間となった。

昼食は炊き込みご飯。展望抜群の岬の道路脇で座り込んで作る。水がないことが予想されたので、水はあらかじめ沖家室島から持ってきてあるのだ。すぐ横を車で通る人が驚いたような顔で見てきたり、昨日乗ったバスの運転手さんが軽く会釈してくれたり、実にぶらり旅って感じだ。炊き込みご飯の素を入れた時にナベがあふれそうになり一瞬ドキッとしたが、なんとか米は炊きあがり、のんびりと昼食を食べる。
海が青い。日差しはポカポカして…。ふと時計を見るともう13時だ。沖家室島を出たのが9時半、ここまでの距離は3km、いかん、急がねば。

のんびりするのもほどほどに、昼食後はやや急ぎめで移動。集落を二つほど抜け、目的地の片添浜に到着する。ここは一昨日の立岩よりもビーチが整備されていて、温泉施設と立派なキャンプ場がある。何もなければ浜辺のどこかにテントを張るのだが、キャンプ場があるのでそこを使わざるを得ない。まあ、トイレも水もばっちりあるし、ゴミの処分もできる(何もないところに泊る時は、ゴミを回収して持ち歩き、捨てられるところを探さねばならない)とあっては、キャンプ代をけちるよりメリットが大きいのもたしかだ。シーズンオフなのでテントサイトは貸切りだし、炊事場をがっつり占拠して食事の準備もできる。
おっと、調理の前に買い出しに行かねば。沖家室島では買い出しはできないので、食材をひととおり背負っていったが、それも昼までで終わりだ。今の食材は米と乾物、ニンジン、タマネギ、ジャガイモぐらいしかない。買い出しは1kmほど離れた平野の町まで行かねばならない。往復で1時間ぐらいだ。テント設営チームと買い出しチームに分かれ、移動に予想外に時間をくったので急ぎめで行く。途中の民家で庭に十数羽のニワトリが放し飼いになっていた。庭にニワトリがいるのはあたりまえといえばあたりまえなのだが、ここまで自由な放し飼いはほとんど初めてだ。なにせ道と庭の間には柵らしい物はまるでなく、ニワトリは脱走しようと思えばいつでもできる状態なのだ。もともとはこっちが普通で、ケージに入ったニワトリの方が不自然なはずだったのだが、いったいどこで常識が入れ替わったのだろうか?

食材も調達し、夕食作りを開始。さすがはキャンプ場、広くて使いやすいので調理もどんどんすすむ。呪いから解かれ、米も無事炊けたし、あっという間に完成!って、え…?なんとまだ17時ではないか、早すぎる。急ぎめで進行したのが裏目に出たのだ。とはいえ、歩いてお腹もすいたので、とっとと食べよう。明日の朝まで14時間ぐらいあるけど。夜中に空腹になったら、朝まで耐えることにするのだ。
夕食後は待ちに待った温泉へ。一昨日の晩に入れなかったので、これが今回の旅の最初で最後の風呂だ。夕食が早かったので、風呂に入る時間はたっぷりとれる。旅の垢をおとしゆったり湯船につかろう。
小一時間ほど温泉ですごしはしたものの、時刻はまだ20時。だが、日が暮れて空は暗く、温泉に入ったせいで体はポカポカして眠くなってくる。やはり、人間は昼間の生き物なのだ。暗くなれば眠くなるのは自然なことだ。そういえば、今日は5時起きだったし。明日も5時起きにすればつじつまはあうはずだ。というよく分からない理論にたどりついたので、この日は就寝。

 

目がさめると太陽はすでに水平線を離れ、時計の針は6時をさしている。寝過ごしたのだ。空腹だし5時に起きるだろうと思っていたが、そんなことはぜんぜんなかった。今日は周防大島ですごす最終日だというのに…。
気を取り直して朝食にする。あいかわらず、使い勝手の良い炊事場であっというまに完成。全員が空腹なので、争うようにして食べる。
朝食後は速やかに出発。昨日買い出しに行った平野を目指す。ニワトリは朝が遅いようで茂みの下でまだ休んでいた。と思ったら、一羽だけ民家と民家の隙間で朝食をあさっている奴がいた。そこはどう見ても飼われている家とは別の家の敷地なんだが…。
ほどなく平野に到着。まずは水場探しから、今日は早めの昼食の予定なのだ。役場の裏手にトイレを発見、ここをベースにして食材の買い出しへ。役場の裏手は海に面しており、ロケーションもばっちりだ。ここまでは全く予定通りだ。朝、寝坊したことをのぞけば。


買い出し終了。海をながめながらの昼食とする。今日の午前は早めの予定で進行するのだ。そのかわり午後はめいっぱい時間をとってある。何故か?それはここ、平野にある文化交流センターに行くためである。

このような施設に行くのは、微妙にぶらり旅らしからぬ事と思う人もいるかもしれないので、ここでちょっと説明しよう。
世の中には民俗学という学問がある。簡単にいうと、民俗学とは、様々な地域でそこに住む人々がどのような暮らしをしているか、もしくはしてきたかを調べ、記録する学問だ。なんとまあ、ぶらり旅にうってつけの学問ではないか。
そして、ここ周防大島は日本民俗学史上、最も偉大な人である宮本常一氏(1907~1981)の生まれ故郷なのだ。この宮本常一という人はその生涯で、のべ行程が16万㎞というフィールドワークを行い、日本中いたるところの地域の生活をとにかく調べ、蒐集して回った人である。氏が記録してくれたおかげで、失われなかった生活の歴史・知恵は膨大なもので、NHKなどが時々、したり顔で「歴史の新事実発見!」みたいな番組をやっているが、そんなものは民俗学では30年以上前から常識だったりするのだ。しかもそのフィールドワークのほとんどは車はおろか、交通機関もなるべく利用せず、歩いて行ったのである。宿泊場所も決めず、民家を借りたり、時には野宿することもいとわなかったそうで、いろいろ書き出すと、ただでさえ長いこの旅行記がさらに5倍ぐらいになってしまうので自粛するが、まさに我々ぶらり旅チームの鑑とすべき偉人なのである。

ここ文化交流センターには宮本常一常設展があり、それはやはりこの旅には外せない。というわけで文化センターの隣の役場裏で早めの昼食をすませ、さっそくセンターへ。


入り口横にあるパネルの宮本氏の足跡を印した地図は、その足跡で塗りつぶされなにがなんだかさっぱりわからないほどだ。さすが民俗学界の巨人。
さらに館内にならべられた古い道具の数々。かつてはは珍しくも何ともなかった物だが、今ではほぼここでしか見ることができない物だ。学校で勉強する、いわゆる「歴史」というやつは、言ってみれば政府文書と宗教文書の集合体でしか無く、実際にその時その場所で、どんな生活をしていたかはわからない物なのだ。しかし、こうやって道具を見ると、それがどんな暮らしであったか…わからない。もはや、それらの道具の使い方が我々にはわからないのである。中には智頭でいじったこともある道具もあるので、一部は分かるものの、稲籾のふるい分け器がどんな動きをするのかも、長い柄の貝掘りをどう振り回すのかもさっぱり分からない。その道具が使われてきた長い歴史で、力学的にとても理にかなった構造に洗練されていることは見てとれるのだが、その歴史は我々の所に到るまでに切れてしまっていた。一抹の寂しさ。しかし、その寂しさをおぎなって余りある使い込まれた道具の美しさ。へたな美術館よりよっぽど美しいのだ。

ここでふと思い出した。28日に行ったこ道の駅、あの日は開いていなかった収蔵庫は今日なら開いているはずだ。あっちに行って道具をながめてみるのも「有り」だな…。本当なら今日はここで資料を読んで午後を過ごす予定だったが、民俗学の資料の数々は、今日まで民俗学のみの字も聞いたことがない子どもたちにはハードルが高い。しかし、道具のおもしろさ、美しさは見れば分かるのだ。
善は急げ、さっそく収蔵庫を目指すことにした。ちなみに、今いる平野と一昨日居た周防長崎は1kmほど離れているだけだ。文化センターから道の駅の屋根も見えている。歩くこと15分で到着した。

だが、ここで思っても見なかったことが、収蔵庫はてっきり道の駅の所属だと思っていたのだが、実は今来たばっかりの文化センターの付属施設で、センターで予約して開けてもらうというシステムだったのだ。しかし、道の駅の事務所の方が、文化センターへの連絡をしてくれ、すぐに収蔵庫を開けてもらえることとなった。こんな時、ぶらり旅は何よりも人の善意で成り立っているとつくづく思う。

文化センターの職員さんの案内で収蔵庫の中に足を踏み入れると、驚くべき光景があった。収蔵庫の大きさは体育館2つをつなげたほどで、かなりの広さがある。その広い建物内が高さ2mほどの棚で埋め尽くされており、その棚のすべての段が全部、道具で埋まっているのだ。その数実に3000点。道具のジャンルもいろいろで、農具をはじめ、紡績、漁具、大工道具、生活用品、等々、それらすべてが数台、多い物では数十台も並んでいる。個々には珍しい物でなくとも、これだけ並べたことで重要民俗文化財に指定されたというから驚きだ。籾や大豆とゴミを分離する「とうみ」だけで20台もあるのだ。(ちなみに最後期型のとうみで、駆動部に増速歯車が着いており、必死に回さなくてもよいように改良されていたものがあった。智頭にあるやつと交換してほしいものだ)昔の道具なので一個一個が手作りで全部違う。鍬だけでもながめてて飽きないぐらいだ。しかし、時間がない。16時には切り上げないと、夕食に間に合わないし、今日はその後バス移動も控えているのだ。名残おしいが駆け足で見て回る。こっちには智頭で使った草取り器が、とか、ここには生水でさわらせてもらった綿花のタネ取り器が、とか、やってる暇はないのだ。海だからかヨシ編みの細工は少ないな、とか、蓑がシュロでできてるのはワラが少なかったんだな、とか、発見している場合でもないのだ。あまりの物量と時間のなさにかるくパニックになる。次回はぶらり旅とは関係なく、個人的に来よう。それか、ぶらり旅の期間を2週間ぐらいにしよう。

あわただしく、収蔵庫を見た後はもう夕方。夕食を準備しないといけない時間だ。せっかく長崎に戻ってきたことだし、前回イワシを買った店にもう一度行ってみることにする。最後の夕食なので少しだけ豪華にしてみようというもくろみだ。結果、マグロとハマチとイワシの刺身を10人で十分楽しめるだけ購入。しめて2000円なり。イトヒキアジがおまけで付いてきた。おまけ?これも充分メイン級の刺身ですが?あまりの太っ腹さと安さに何かの間違いではないかと思ったほどだ。ついでにこっそり個人用にイワシの干物を買ったのは公然の秘密だが、これにもアジの干物がおまけで付いてきた。本当にどこへいっても、誰かが親切にしてくれる島だ。筆者を含む京都人は皆、反省するように(ちなみに今回のぶらり旅はリーダーを含めた全員の半数が京都人。大阪自然教室とは名ばかりだったのだ)。

予想外の収穫があり、夕食はリッチな刺身パーティーとなった。リッチとは言っても場所は収蔵庫の裏手の公園なのだが。しかも、先を争って刺身の大きい切り身を取ろうと醜い戦いが繰り広げられたので、気分はリッチとはほど遠かった。おまえらもうちょっと味わって食えよ!

あんまりなリッチさに食事はわずか15分ほどで終わってしまった。あまりに早く夕食が終わったせいで、ちょっと時間があまったので、沖合の島まで歩いて行ってみる。この島は干潮時にだけ大島とつながる砂州ができるらしい。前回来た時は潮が引ききっていなかったので完全に島だったが、食事が終わった今、いいあんばいに潮が引き海の中に道ができていた。島にはこれといって何もないが、ちょっとした秘密基地みたいで男の子心をくすぐられる物があった。砂州には貝がいるらしく、潮干がりをすればここでもアサリが採れそうだ。だが、今から採っても使い道がない。これ以降、おにぎり以外に調理する予定はないのだ。もう旅も終わる。

最終バス(といっても19時台だが)でフェリーの出る伊保田に向う。バスからすっかり暗くなった景色をながめながら、昼の景色を想像してみる。本当はこの道も歩いてみたかったのだ。4日間はやはり歩く旅には短すぎる。

伊保田に着いた。これよりフェリーの待合室で一夜を明かすのだ。周防大島をはさむ柳井、松山航路は24時間体制で運行しており、目的のフェリーは4時50分発である。その前に明日の食事用に、ご飯を炊いておにぎりを作っておかねばならない。毎夜の事ながら風が強く吹くなか、米を炊く。ついでに干物を焼いて夕食時にあまった米で作ったおにぎりをほおばる。米と干物はやはり合う。あまりの合いっぷりに炊いたばかりの米まで食いそうになったのであわてて干物をしまうことに。
翌日の分の食事も準備できたので、待合室の一角を占拠して就寝。


寝たと思いきやもう起床である。時刻は4時半。さすがに木のベンチは固い。床には銀マットを引いたがそちらも同じようなものだろう。疲れのとれない体にむち打って、大急ぎで荷物をまとめ、フェリーを待つ。夜の間に雨が降り出したようで、けっこうひどく降っている。しかし、今日は交通機関を乗り継ぐだけ、天候の悪さなど問題にもならない。なにせ、大島にいた間、ずっと晴れていたのだ。
フェリーが来た、これから大阪まで帰る旅路だ。まだこれから10時間ぐらいあるが、ここから先は鉄道マニアしか喜ばない話なので、ここらへんで筆を置こう。