大阪自然教室の生誕地は「中津」ですが、やはり「故郷」といえるのは「熱田」でしょう。

1977年、それまでの兵庫県美方町(現香美町)貫田集落の農家に泊めていただく4泊企画を『美方自然教室:貫田班』とし、新たに小代渓谷の最奥にある熱田集落の田淵徳左衛門さん宅をお借りして高学年(小学六年・中学生)対象の4泊企画『美方自然教室:熱田班』を始めました。

以後、宿泊日数を徐々に増やして8泊、12泊、さらに24泊へと延長していきました。(参加はそれぞれの都合にあわせて宿泊数を4泊単位で選択)

2005年に美方町(現香美町)から拠点を智頭町に移してからは、『熱田自然教室』として期間を8泊に短縮して継続を図りましたが、子どもたちを引率しての企画は2007年の夏を最後に停止しました。

実に31年間に及ぶ『熱田』での自然教室、子どもたちや若いリーダーたちを優しく見守っていていただいたのは田淵徳左衛門さんでした。

高学年対象の企画を熱田分校跡で行うことを思い立って徳左衛門さんに相談したところ、分校は教育委員会の所有で手続きもややこしいから私の家を使いなさい、とおっしゃっていただいたことから始まりました。

当時、熱田集落の9軒は町が用意した越冬住宅に集団移住しておられ、おじさんたちは軽トラックで通ってこられて農作業や山仕事をされておりました。

夏の期間中の夜は、雪解けと共に熱田にあげられていた母子牛と私たちだけの別天地でした。そこで繰り広げられるごった煮の異年齢集団による不自由な自炊生活。これが自然教室の骨格となっていきました。

徳左衛門さんとともに私たちを見守ってくれた家も、当初、母屋は写真にある茅葺きの屋根でした。母屋の手前に2階建ての別棟、反対側に牛小屋を併設し、裏手に蔵がありました。しかし、1981年春に解けて動き出した雪に母屋が押しつぶされました。その夏、徳左衛門さんは小屋を再建されてその後も活動を継続できるようにしていただきました。

子どもたちや若いリーダーたちに『熱田のおっちゃん』と慕われていた徳左衛門さんが熱田へ作業に上がられる最後の方であり、それも10年ほど前まででした。その徳左衛門さんも昨年三月末に永眠されました。熱田越冬住宅に残っているのは、集団移住後に名古屋からお嫁に来た方だそうです。

集団移転されてからも、行政区としての熱田自治会はその後も継続していました。徳左衛門さんが亡くなられ、越冬住宅にすむ方も1人になった節目の50年迎えて、自治会としての熱田の無期限休止を決定したのだと思います。

一昨年にはフジテレビの「世界の何だコレ!?ミステリー」で取り上げられ、昨年末には関西ローカルですが、朝日放送の夕方の報道番組「キャスト」において15分ほど紹介され、神戸新聞にも記事が掲載されました。

記者もなかなか熱心な方で、私も関連取材として2回電話でお話ししました。徳左衛門さんの人となりを聞かれ、子どもたちに何を指導されていたのですかと問われるのですが、いや何をといわれても・・、ただニコニコと見守っているだけですと答えましたが、あの『熱田』での独特な空気感を説明するのは難しく、他の人には理解してもらえないだろうと思いながら応答していました。

3月31日の式典には熱田の関係者が集まりになられるとのことなので、平日でも参加できるリーダーたちと一緒に出席する予定です。

また、せっかくFacebookを本格化させたところなので、これを機会に時々熱田の昔話をブログやFacebook書いていきたいと思っています。

追記】3月31日の式典は越冬住宅集会所で行われます。5月の連休には「分校跡」で写真展などなどができないかと検討中だそうです。